Reformed Church in Japan 日本キリスト改革派仙台教会 |
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「改革派教会」とは |
キリスト教には、立場の違いから様々な流れがありますが、大きく分けると旧教(ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会)と、 新教(プロテスタント教会)に分かれます。16世紀ごろヨーロッパの教会は、聖書の教える信仰からそれて堕落してしまいました。
この教会を再び聖書の教えに立ち返らせるために起こったのが、宗教改革運動でした。その結果できたのがプロテスタント教会です。 ドイツでルターが、スイスでカルヴァンが活躍しました。このカルヴァンの伝統に立つ教会が「改革派教会(Reformed
Church)」と呼ばれてきたのです。 この改革派教会は、聖書が教える教会の本来あるべき姿に立ち返ろうとする熱心をもつ教会です。 私たちは、聖書に従って神の栄光をあらわすことを人生の主な目的とし、狭い意味での信仰生活だけでなく、 広く文化や生活の面にも聖書の教えを 実現することを目標としています。 |
ジャン・カルヴァンの生涯と教会改革 |
生い立ち ジャン・カルヴァン(コーヴァン。カルヴァンは同名のラテン語化)は1509年7月10日、フランス北部のノワイヨンに誕生。父の勧めに従い、カルヴァンは初め聖職者への道を、後に法律の学びに転ずる。 しかし、当時ヨーロッパ全土に広まりつつあった霊的刷新・宗教改革の新しい霊の息吹きは青年カルヴァンにも確実に及び、改革運動排斥の暗雲立ち込める1532年、彼はパリにおいて処女作『セネカ「寛容論」註解』を出版。本書において古典解釈法を確立したカルヴァンは、他方でこの謹厳な思想家の口を借りて宗教的寛容を世に訴えた。 パリでの日々の終わりは思いがけなく訪れる。1533年11月1日万聖節、ニコラ・コップによるパリ大学総長就任講演は、明らかに改革運動を支持するものであった。コップの親しい友人だったカルヴァンがどれほどこの講演に関わっていたかはともかく、異端審問のために出頭を命じられたコップとともに、カルヴァンはパリを後にした。 人文主義者から改革者へ 生来非社交的で静謐を好むカルヴァンは、亡命先のバーゼルでも隠れるようにして書斎での研究に勤しんでいた。しかし、敬虔な同胞たちが祖国で次々と火刑に処せられているとの報せを耳にしたカルヴァンは、黙認していることに良心の咎めを感じ、ついに彼らのためにペンを取った。これが『キリスト教綱要』初版である。時の王フランソワ一世に宛てた手紙の中で、彼は、改革運動に携わっている人々こそ真のキリスト教会であることを宣言。その信仰内容を積極的に提示した。1536年、カルヴァン27歳の時であった。 『綱要』出版後に一躍有名になったカルヴァンは、ストラスブルクへの亡命を企てる。戦争によって塞がれていた最短路を迂回するため、彼はジュネーヴへと赴いた。ほんの一晩泊まるだけのこの町で、その後のほとんど全生涯を費やすことになろうとは、いったい誰が予想しえたであろう。 静かな学究生活を望んでいたカルヴァンを、あたかも神ご自身が御手を伸ばされたかのように激しい叱責と呪いの言葉をもって引き留めたのは、すでにこの町での改革に着手していた闘士ファレルであった。こうして、書斎の研究者は今や戦いの表舞台へと引きずり出されたのである。 カルヴァンの神学と教会 カルヴァンの神学に独創性を求めるのは、誤りである。彼が何よりも神の言葉に沈潜しそこに究極の基準を求めたことは事実であるが、同時に古今東西の神学者(とりわけアウグスティヌス)たちを始めルター・ブツァー・メランヒトン・ツヴィングリ等同時代の改革者たちから実に多くを学んでいる。カルヴァンの才能は、独創性よりも、むしろそれらの教えを御言葉の光に照らしつつ(フランス人らしい?)合理性と類まれな明晰さで再構築した点にある。 さらに、カルヴァンは、人文主義者また平信徒としての実際的感覚を持ち合わせていた。彼にとって重要なのは、思弁の正統性ではなく、正しいことをいかに実践するかということであった。こうして、あるべき教会の具体的な姿が、ジュネーヴにおいて現れることになる。私たちはそれを、御言葉の教育・教会組織・キリスト者の生活の、三つの視点から見てみよう。 御言葉の教育 “ただ聖書のみ!”これが改革者たちの鬨の声であった。しかし、いったい聖書をどのように読み、どう理解すればよいのか。この問いに応えるため、カルヴァンはまずカテキズム(教えの手引き)を著した。 そもそも『キリスト教綱要』初版自体がある種のカテキズムであったが、その後も『信仰の手引き』『ジュネーヴ教会信仰問答』等を作成し、聖書を読み解く指針を示した。これらによって人々は、イエス・キリストにある福音の中心性を失うことなく、旧・新両約聖書全体から神の御旨を正しく読み取る道標を得たのである。 同時にカルヴァンは、何より聖書そのものを人々に教えるため、聖書全巻に渡る注解と説教を企て、これを堅忍不抜の精神によって生涯実行し続けた。人文主義者としての面目躍如たる注解書と、語れば必ず聞く者を御言葉への信従に駆り立てたという彼の説教は、神の言葉こそが至高の権威であることを人々に強く印象づけたのである。 改革の継続性に教育が不可欠であることを知っていたカルヴァンは、子どもを含めたあらゆる人々に御言葉を教える労苦を厭わなかった。聖書の学びは、今や学者たちの独占物からすべての人へと解放されたのである。後にアカデミー(学院)が創立されてからのジュネーヴは、名実ともに全ヨーロッパの神学教育の中心となる。 教会組織 神の言葉の純粋性が保持されるためには、同じく神の言葉に則った健全な教会組織が必要である。カルヴァンはそのことを体験的に理解していた。なぜなら、当時多くの場所で福音が伝えられながらも改革が必ずしも成功しなかったのは、新しい酒を入れるための新しい皮袋がなかったからである。ジュネーヴ着任後、カルヴァンが信仰告白とともに真っ先に『教会規定』作成に取り組んだのは、そのためである。 その厳格さの故に一度は市当局によって拒絶され、カルヴァン諸共追放されたこの『教会規定』は、1541年、ストラスブルクから再度ジュネーヴへと呼び戻されたカルヴァンによって、より詳細かつ十全なものに整えられる。ブツァーのもとでストラスブルクの教会から多くを学んだカルヴァンは、主イエス・キリストが御自身の教会のために定め給うた四つの職務として牧師・教師・長老・執事を規定した。 さらに、カルヴァンは、教会員に対する霊的統治すなわち教会訓練に関して、これを世俗権力に委ねることなく教会が行なうべきことを強く主張した。市民の私生活に深く関わっていた世俗権力に対する、教会の自律性を唱えたのである。このことは当然強い抵抗にあったが、御言葉による教会統治を確立するための生命線として一歩も譲らず、ついにジュネーヴ教会は破門権を自らのものとしたのである。 キリスト者の生活 カルヴァンにとってキリストの福音とは、たんなる舌の教えではなく、生活そのものであった。自己を否定し、そのすべてをキリストに捧げることである。そこには、信仰生活と世俗の生活との二元論はありえない。なぜなら、生活の全領域で神の栄光を顕わすことこそ、真に神中心の生活と言えるからである。こうして、すべての生活、すべての職業に積極的意味が与えられた。 無論、この世では絶えざる罪との戦いがある。しかし、そのためにこそ教会は御言葉によってその子らを訓練し、また慰め力づけるのである。実際、キリストの勝利の力が及ばぬ領域など存在しない。これがカルヴァンの確信であった。 終わりに ジョン・ウェスレーは、カルヴァンを「神の偉大な器」と呼んだ。しかし、この偉大な器はまた誰よりも自らの弱さを知っていた。 数知れぬ病いを負った肉体の弱さはもとより、性格の欠点、何より多くの自分の罪と失敗を知っていた。 そのような「私に対し、なおも御自身を父として示してくださるという神の憐れみのほか、私はいかなる保証にも頼まない」と カルヴァンはその遺書に記している。福音を生きたカルヴァンは、1564年5月27日、地上での生涯を終える。 自分のための墓石は建てさせなかった。ただ神の栄光が顕わされるために。 |
(牧師記) |
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